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2007年03月08日(木) 00時00分

空襲体験100枚の絵に 台東区で展示 東京新聞

 火の海を逃げ惑い、大勢の焼死体を見た。小平市の小島義一さん(74)は一九四五年五月、荏原区(現・品川区)で空襲に遭い、惨状を目の当たりにした。自身の体験を百枚の絵に描く取り組みを始めて七年。この年三月十日の東京大空襲も、生存者の証言を頼りに昨年から描いてきた。「今の子どもたちに戦争の悲惨さが伝われば」との願いを込め、子どもの表情に気を配っているという。 (杉本慶一)

 荏原区の自宅には小島さんと父、祖母、四歳の弟がいた。空襲が始まって家を出た途端、焼夷(しょうい)弾の火柱に包まれた。一家は離れ離れになったが、朝には全員無事で再会できた。

 自宅の焼け跡に戻ると、母子らしい二人の黒こげの遺体があった。父とトタン板に乗せ、近くの空き地に運んだ。何十人もの焼死体がまるでマネキンのように積み重なっていた。

 戦後に日本画を学んだ小島さんは、空襲体験の絵を描くことを義務のように思ってきた。が、悲惨な焼死体の光景を思い出すのがつらく、ずっと手つかずにいた。

 吹っ切れたのは七年前。弟に「空襲を覚えているか」と尋ねると、あまり記憶にないという。弟が無事だったのは祖母のおかげだ。小島さんは、腰の曲がった祖母がつえをつきながら、弟の手を引いて逃げる姿を覚えていた。

 最初はその光景を絵にした。さらに描いた数枚の絵が、小平市で「平和のための戦争展」のグループの目にとまり、出展を頼まれた。小平や品川区の戦争展などで展示を続け、完成した絵は七十九枚に上っている。

 新たなテーマにした東京大空襲は、神田の芳林国民学校(現・千代田区立昌平小)の当時の児童の体験談を、何度も読み返して絵にした。学童疎開の絵も、体験者に求められて描いてきた。

 ほとんどの絵に子どもを登場させ、表情を丁寧に描き込んでいるのが特徴だ。「今の同年代の子どもたちに、悲惨な体験をした当時の子どもたちの姿を重ね合わせて見てもらいたい」と小島さん。

 これからも描き続ける荏原と神田の空襲の絵。自分に一つの宿題を出した。死ぬ間際の犠牲者を描くことだ。

 「なぜ死ななければならないのか、亡くなる瞬間に心は怒っているはずだ。その表情が描ければ、戦争の実情がより伝わると思う」

     ◇

 小島さんが描いた神田の空襲の絵のうち十枚は、八日−十一日に台東区の浅草公会堂で開かれる「東京大空襲資料展」で展示される。午前十時−午後五時。入場無料。問い合わせは、同実行委員会=(電)(3876)4858=へ。


http://www.tokyo-np.co.jp/00/tko/20070308/lcl_____tko_____001.shtml