調べによると、柴田容疑者は一九七六年夏、大阪市の大林組本店から名古屋支店に転勤した。名古屋での同社の発言力を高めるための異動だったとされ、大阪で当時「関西の談合のドン」と呼ばれた人物の下で落札の本命業者を一人で決める方法など談合のノウハウを学んだ同容疑者が選ばれたという。
当時名古屋では、ゼネコンなど約百社でつくる談合組織「親和会」があり、「幹事社」と呼ばれる十三社の談合担当が各社の受注希望工事について、数人の仕切り役と相談。合議の末、落札工事を決めていた。ところが、九三年のゼネコン汚職事件などを機に親和会は解散。他社の仕切り役も相次いで引退した。結果的に柴田容疑者一人が仕切り役として残った。
合議制は、落札の本命業者選定までに時間と手間がかかっていた。そこで、同容疑者は各社から個別に受注希望を聞き、現場周辺での工事経験や発注される工事の規模、入札予定価格を事前に把握するためにどの程度努力したかなどを、本命業者として選ぶ基準であることを明確にし、容疑者一人で落札業者を決めるようにしたという。
同容疑者の直属の部下だった元副支店長(59)=談合罪で有罪確定=でさえ「大規模な工事は、自分は口を挟むことができなかった」と話している。
特捜部の調べに対し、複数のゼネコンの談合担当幹部は「柴田容疑者の指示に従わず、無断で共同企業体(JV)を組んで入札に参加するような業者はなかった」と供述。その影響力は大手ゼネコン各社による一昨年末の談合決別宣言後も残り、昨年あった地下鉄五工区の各入札に参加したJVの数や構成は、柴田容疑者が宣言前に決めた枠組みとほぼ同じだった。
http://www.tokyo-np.co.jp/00/sya/20070305/mng_____sya_____010.shtml