日本統治下の台湾生まれ。日本に渡り、繊維問屋などを営んだ。34年に立命館大学専門学部を修了。製塩業、金融業など様々な事業をしながら、48年、日清食品の前身にあたる貿易や卸問屋を営む中交総社を設立、社長に就任した。
戦後の焼け跡でみかけたラーメンの屋台の印象が強烈だったことから、自宅の裏庭にこしらえた作業所で57年初めから即席めんの試作に取り組んだ。翌年、商品化に成功し、インスタント食品の草分けである「チキンラーメン」を発売した。社名も日清食品に変更した。48歳の時だった。その後もカップ入りの即席めん「カップヌードル」など数々のヒット商品を発案、同社を世界10カ国で年間100億食を生産する世界一の即席めん会社に育てた。
81年に社長を長男に譲り会長になったが、2年後再び、社長に復帰し会長と兼務した。85年に次男の宏基氏を社長に据え、会長に専念した。晩年も自社の商品への愛着は人一倍強く、すべての商品の味見をしていた、という。92年、森永製菓が「チキンラーメン」の名称を用いたスナック菓子を発売した時は、「チキンは我が社の原点」として争い、販売停止に持ち込んだ。