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JR秋葉原駅のホームから「デパート口」の改札を抜けると、飲食店や紳士服売り場が並ぶ三階フロアが広がる。秋葉原の電気街の中では、衣料品や日用品などを扱う異色の空間だ。
「何階か分からずに、出口を探して迷うお客さまも多いんですよ」
同デパートで四十年以上働く細谷義夫・直営事業部長(64)が苦笑した。
JR総武線の高架下三階建て。アキハバラデパートは、戦争の傷跡がまだ色濃く残る一九五一年十一月に、全国でも珍しい駅と直結したショッピングビルとして登場した。JR東日本のエリアでは最古の駅ビルといい、エスカレーターもエレベーターもなく、上り下りするには階段を利用するしかなかった。
細谷さんは「老朽化が進み、雨漏りもひどい。バリアフリー規格になっておらず、何年も前から『エレベーターを設置してほしい』という苦情が続いていた」と言う。
デパートを運営する「東京圏駅ビル開発」では、建物の老朽化に加え、つくばエクスプレスの開業で再開発が進む中、アキハバラデパートのたたずまいが「周囲から取り残されている」として閉店を決めた。建物を取り壊し、来春をめどに跡地利用計画を立てる。
秋葉原の小さなデパートは、実は「百円ショップ」の元祖。一九六〇年ごろから百円均一で雑貨などを扱っていた。
また、八〇年に店頭に常設した実演販売の売り場も、秋葉原の名所の一つだ。テレビショッピングなどで活躍するデモンストレーターらの登竜門となり、穴あき包丁やスライサーなど、便利な調理器などを世に出した。
細谷さんは「秋葉原には電気街を目指して全国から物見高いお客さんが集まる。何か新しいものを求める男性客が、調理器などを買っていった」と説明する。「百円コーナーも実演販売も良いモノしか扱っていない。たぶん初めは奥さまに怒られたでしょうが、徐々に口コミで広まり、海外から買いにくる人もいた」
閉店を惜しむ客が全国から詰めかけているが、デパートは地域に根ざした小売店の顔も併せ持っていた。
万世橋地区町会連合会の小暮敞士会長(67)は「ここらで百貨店といえば、上野松坂屋くらい。中学生のころ、わくわくしながらオープン初日に遊びに行った。景品に鉛筆をもらった」と振り返る。
JR秋葉原駅前に住む福山雅江さん(82)も「一階でおみそやおしょうゆなど食品を扱っていて。長女が小学生のときに学校の授業で『おしょうゆやお砂糖はどこで売ってる』と聞かれ、何でも『デパート』と答えて笑われました」と楽しそうに話した。
「デパートができたころに駅前の広場を整備しましてね。五、六十枚も大きな御影石が出てきて騒ぎになったことがありました」。鉄道の敷設で明治時代に上野に移設された秋葉神社の名残とみられたが「空襲で古くからの人がだいぶいなくなったのでご存じない方も多かった」。
すぐ近くには日本有数の既製服問屋街があり、紳士服売り場はデパートの目玉の一つだった。「近くの岩本町の問屋から仕入れていると評判で、だいぶ遠くからも買いにきていたようですよ」(福山さん)
六四年の東京五輪を契機に、電化製品が急速に普及し、街のにぎわいも増していった。デパートの女性店員らが、神田祭で町会のみこしを担ぎ華やいだこともあった。
「子供会や老人会の集まりのお菓子も、デパートでそろえていました。袋詰めにして預かってくれたり。ずいぶん無理も聞いてもらいました」
戦後をともに過ごしたデパートの閉店に、福山さんは「寂しいし不便ですよ」と嘆息する。「でも、(マンション住民を除いて)もうほとんど住む人のない街になってしまいましたからねえ」とつぶやいた。
文・中山洋子
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