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断食30日目。気力を振り絞って大日岳の鎖場を登る伊富喜秀明行者 |
無音の静寂に包まれる深仙ノ宿周辺。灌頂(かんじょう)堂の向こうに大日岳がかすむ |
命がけの修行だったが、死ぬとは思っていなかったに違いない。行者はふらつく足にもっと力が入るようにと、7リットルの水タンクを入れたリュックを背負い、お堂の中で失神していた。水だけで60日間を過ごすと決めた断食行の53日目だった。11年前の1人の行者の姿は今も重い問いを投げかける。(佐伯善照)
1995年の夏。奈良・大峰山系の行場「深仙(じんぜん)ノ宿」で、荒行を続けていた伊富喜(いぶき)秀明行者(本名秀夫さん、当時50歳)は、その2日後の9月18日、担架で下山中に亡くなった。一時は意識を取り戻し、心配する支援者らに「今夜は一杯やりましょう」と話し、駆けつけた夫人と末娘にも満面の笑みを見せたという。
行者は、滋賀県甲西町(現・湖南市)の立志(りゅうし)神社の宮司だった。「霊力をもっと高めて、病める人々を救いたい」と、天台系の修験道を継ぐ三井寺(大津市)の僧籍も得て各地で修行。断食道場を開き、5年前には大峰山中の洞窟(どうくつ)で40日の断食と滝行を果たしていた。
日記には、痛々しいほどの決意と自分への叱咤(しった)が45日目までつづられていた。なぜそれほど厳しい修行をしたのか。
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研究者や体験者によると、修験道の神髄は、一度死んで山岳という母胎に入り、修行を経て成仏し、新たな生を得てよみがえる「擬死再生(ぎしさいせい)」と、山中で得た力を里で生かし、神仏と衆生(大衆)の間に立って衆生の苦しみを受ける「代受苦」だ。古代〜中世には、しばしば死に至る荒行も実行され、身投げなどの捨身(しゃしん)行も多かったという。
現代人には理解しにくい、この捨身の起源について五来(ごらい)重・大谷大教授(故人)は、共同体の運命が災害など自然現象に左右された狩猟採集時代の信仰の名残と推測した。罪や汚れが招いた山の神の怒りを鎮め、全滅を免れるため、最も尊いもの=命を犠牲にしたというわけだ。
“山の作家”宇江敏勝さん(69)は7世紀ごろまでに生じた都市問題や風俗の悪化などに反発した知識人青年の「脱文明・脱都市思想」が修験道の起源ではないかといい、自家用車やステレオなど文明の楽しみを追う学生と反発する山岳部員らの二極分化が起きた高度成長期の例を自著(「熊野修験の森」)に記している。
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山岳信仰に神道、仏教、陰陽道や道教などが習合した修験道の教義は部外者には難解で、装束も異様だが、理屈抜きで擬死再生を体験させる実技は、実にうまくできている。
大峰山中の絶壁で半身をつるされる「のぞき」の行も、近年は地元の成人儀式に近く、はためにはユーモラスだが、元来は捨身行の名残といい、経験した同僚は本当に「死ぬほど怖かった」という。出羽三山(山形県)の羽黒修験道に残る「南蛮(なんばん)いぶし」も、当事者は七転八倒する。これは成仏までの十段階を味わう十界修行の一つの「地獄道」で、洗面すら禁じる水断(みずだち)は「畜生道」、断食は「餓鬼道」の修行という具合だ。
唐辛子の煙の後は新鮮な空気で生きた心地になり、山道を半日も歩けば、おにぎりから後光がさす。そう考えると、近年の古道歩きや歩き遍路、さらには登山にも、そんな「よみがえり」の希求がありそうだ。
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伊富喜行者は5日ごとに南の大日岳に登攀(とうはん)。23日目には、付近で行方不明になった遭難者の発見を祈願して北の釈迦岳にも登拝、3日後、自分も捜索に行こうとして止められている。遭難者は後に無事見つかったが、行者自身は帰らぬ人となった。
95年は阪神大震災と地下鉄サリン事件が起きた。60日行の決意を最初に聞いた時、新宮山彦ぐるーぷ世話人代表の玉岡憲明さん(81)は「オウム事件を対岸の火事と眺めていては宗教界は衰退する。多くの若者がオウムに救いを求めたことは大きな事実だ」と考え、「ほんまもんの行者さんを支援するのは在家の務め」と思ったという。
国家を模し、科学武装したカルト教団の事件は軍国主義と国家神道が残したトラウマを深めた。だが憑(つ)きもの落としなどを担当してきた里の修験者と昨今の霊感・霊視商法や占いタレントらの境界はあいまいで、捨身も一つ間違うと、特攻や自爆テロを美化する道具になりかねない。
カルト問題を追っているフォトジャーナリスト藤田庄市さん(59)は「おどしや恐怖心で精神を呪縛しないか、金銭などを搾取しないかが、見分け方でしょうか。しかし、オウム事件のように、人を殺しておきながら、主観的には相手を救済する捨身行のつもりというケースもあるから怖いんです」と話す。
自然や他者の苦しみへの感受性とともに、暗示や洗脳を見抜く批判精神が必要なのだろう。メディアの役割も重そうだ。
■「左見右見(とみこうみ)」とは、あちらを見たり、こちらを見たりするという意味です。宗教やこころのニュースに様々な角度から迫ります。
http://www.asahi.com/kansai/kokoro/tomikoumi/OSK200612190027.html