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神父 本田哲郎さん |
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僧侶 釈徹宗さん |
大阪市西成区のあいりん地区で野宿を余儀なくされた日雇い労働者の支援を続けるカトリック神父の本田哲郎さん(63)。浄土真宗本願寺派住職で宗教学者の釈徹宗さん(45)は、認知症高齢者のための介護施設を運営する。宗教者として社会活動に取り組む2人が、宗教と社会のかかわりについて語り合った。現代に生きる宗教とは何だろうか。(構成=池田洋一郎)
人を人として大切にすること
本田 一般に「釜ケ崎」と呼ばれる大阪・西成のあいりん地区に来て16年たちました。最初は、野宿の日雇い労働者を助けなくてはと、いそいそと炊き出しを手伝ったり、夜回りに参加して毛布を配ったりしていた。多いときには1回の炊き出しで1600食も用意しなければならず、あちこちツテを頼りに米や野菜を集めて、いいことをしているつもりでした。ところが、列に並ぶ人たちの大半は必ずしもうれしそうではない。
釈 どうしてですか?
本田 そのうち、彼らの「仕事さえあればなあ」というつぶやきに気づきました。必要から炊き出しに並ぶけど、誰も並びたくて並ぶわけではない。見ず知らずの人から毛布をもらうことに納得していない。その場限りの援助では、問題の根本的な解決にはならない現実を、彼ら自身が一番よく知っている。私たちがよかれと思ってやっていることが、彼らにしてみれば真の意味での支援になっていなかった。それで仕事の獲得、賃金不払いなどの対処、生活保護を受ける手伝いなど、一番彼らが必要としていることをしようと、日雇い労働組合の人たちといっしょに行政と交渉するようになりました。大阪府庁や大阪市役所で座り込みもしました。
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釈 私は今、寺の住職、宗教思想研究、NPO(非営利組織)を作って認知症高齢者のためのグループホーム運営と、三つの活動の柱があります。最近は、いろんな人たちとの関係性、つながりの大切さを痛感しています。これもNPOやグループホームの活動から学んだことです。寺の近くの古民家を改造して、9人の認知症高齢者が共同生活を送っています。古民家にしたのは、できるだけ普通の生活をしてもらいたかったから。お世話するスタッフはしんどいけど、なるべく自由に過ごしてもらえるようにしています。
本田 釜ケ崎にいて思うのは、キリスト教はすべての人を愛せと唱えながら、その実、施しや哀れみ、相手を見下した善意を振りまいてきたのではということです。自分たちがいいと思うことだけをやり、本当に困っている人たちが一番望んでいることは見過ごしてきた。釜ケ崎では「おい、偽善者」とずばっと言われてしまいます。
釈 釜ケ崎の人々は、本物と偽物を見抜く力がすごいと、ご著書に書かれていますね。
本田 教会は建前では、自分の家族や友人と同じように他人を愛しなさいと言いながら、現実にはそうできない。できないことを教会はやれと言ってきた。無理に愛そうと努力するときに肝心なものが欠落するのではないでしょうか。
聖書で普通「愛」と訳されている「アガペー」というギリシャ語を調べ直してみると、「その人をその人として大切にする」というのが元の意味だとわかった。これだったんだ、と思いました。その人を大切にしようと思ってかかわるときには、その人の必要をまず聞き取ろうとするはずです。人を人として大切にするというのは、無宗教の人にも通じることです。
釈 一方で、釜ケ崎では布教を目的に活動している宗教団体もありますね。
本田 私は布教は一切考えないですね。洗礼を受けたいという人には、「よく考えた方がいいよ」とまずは断ります。「ふるさとの家」という福祉施設で日曜日の礼拝はやっていますが、誰でも自由に参加していい。布教どころか、我々の方が、礼拝に参加する労働者や野宿の人たちから学ぶことが多いですよ。
自分の思い込み捨て寄り添う
釈 私も認知症の高齢者の方々から日々教えられます。初めは、そうした人たちとどう付き合えばよいのかさっぱりわかりませんでした。けど、自分の枠組みをはずし、価値観や思い込みを崩して寄り添ってみると、楽になった。自分が認知症になることも怖くなくなりました。これはお釈迦様の言ってることではないかと思いました。苦しみを生む原因の一つに「愚癡(ぐち)」(*)があります。苦しみを生み出すメカニズムがわからないから苦しい。相手のことがわからなければ、自分の枠を点検し直し、崩してみる。そうすれば苦しみが一つ減らせる。認知症の人たちに教えられました。
本田 宗教者よりも、野宿を強いられている人たちの中に、本当の宗教心や、人を人として大切にする心を持つ人がむしろ多い。精神的に追い詰められて独り言を言い続ける仲間を黙って受け止めていたり、喫茶店でもらったパンの耳を、自分の分にも足らないのに他の仲間に分けてあげたり。そんな姿に頭をがつんと殴られる思いです。人が生きていくうえで本当に大事にすべきことを教えてくれるのは、教会の聖職者ではなくて、困難の中でほんとに痛みを知っている人たちなんだと、わからせられます。
* 仏教の教えを知らず、道理や物事の真相を明確に理解できないこと。「貪欲(とんよく)」(むさぼり)、「瞋恚(しんい)」(怒り)とともに、最も根本的な煩悩である「三毒(さんどく)」の一つ。
http://www.asahi.com/kansai/kokoro/taidan/OSK200609050010.html