2004年07月02日(金) 03時07分
欠陥も良心も封印10年、「胸が痛んだ」三菱自元幹部(読売新聞)
「公道に走る凶器を放置していたに等しい」とまで言われた三菱自動車(昨年1月、商用車部門が三菱ふそうトラック・バスに分社)の欠陥車をめぐる事件は、1日、河添克彦・元社長(67)ら4人が業務上過失致死罪で起訴され、一連の捜査を終えた。
長年にわたって続けられた隠ぺいについて、起訴された中心人物の1人は「胸が痛かった」と社内調査で告白していた。謝罪会見に臨んだ三菱自動車の新社長は「今後はユーザーの安全、品質を第一とする」と誓ったが、信頼回復までの道のりは険しい。
三菱自動車製大型車のクラッチ部品欠陥は、限られた幹部たちが隠し続けてきた「秘密」だった。しかし、隠ぺいの中心人物の1人で、他の幹部3人とともに業務上過失致死罪で起訴された元執行役員の中神達郎容疑者(61)は、「胸が痛んでいた」と自ら封印したはずの過去に10年近くもさいなまれ続けていた。
中神容疑者はその心境を、社内調査で詳細に語っている。
三菱ふそう関係者によると、中神容疑者が初めてクラッチ欠陥を知ったのは、品質保証部長だった1995年秋。
同部門のグループ長だった三木広俊被告(ハブ欠陥事件を巡り業務上過失致死傷罪で起訴)から、「重大な欠陥」と打ち明けられ、開発部門などに掛け合って実証実験にまでこぎつけた。最悪の場合はブレーキ故障につながることがわかったため、「これは何とかしなければ」と翌年3月からは社内会議でリコールの検討を始めた。
しかし、クラッチ欠陥の扱いは、社内会議にかける前から結論が出ていた。
95年夏、欠陥が原因で物損事故を起こした東京都内の産業廃棄物処理業者に、三菱は新車7台を提供する特別な補償措置を行った。
当時の大型車部門トップの決定だったため、欠陥を公表することは、最初から選択肢にはなかったのだ。
結局、三菱は整備工場を通じてひそかに欠陥部品を点検する“ヤミ改修”という手段を選んだ。中神容疑者は社内調査に対し、「できることは、全部やったと思っていた」と話していた。
しかし、96年5月以降一斉に始まったはずだったそのヤミ改修は、欠陥部品のガタつきなどを調べるだけのもの。そのうえ、販売店任せで、いまだにだれも実施率さえ把握していない。
事故は散発的に続き、2002年10月、山口県内で大型トラックによる死亡事故が起きる。
しかし、封印した過去を自ら明かすことはなく、欠陥隠しの方針は社内の奥深くで引き継がれ続けた。
クラッチ欠陥の問題は今年5月、三菱ふそうの品質保証部門の担当者が、社内の調査に対し自発的に“自白”したことで初めて白日のもとにさらされた。
中神容疑者は逮捕される直前の社内調査で、「ずっと悔やんでいた」と振り返り、「あの事故以降は、特に胸が痛み続けた」と打ち明けた。隠ぺいに関与したことで捜査当局から刑事責任を問われる可能性が高いことを告げられても、中神容疑者は「仕方がありません」と淡々と話していたという。
◆トップ会談で虚偽報告決定◆
河添容疑者が業務上過失致死の罪で起訴される決め手となったのは、リコール隠し事件発覚直後の2000年7月から8月にかけて、社内で行われた「トップ会談」だった。
横浜地検の調べによると、この会議は、運輸省対策として、社長判断を仰ぐために開かれた。参加者は、今回起訴された4人のほか、品質保証部門やトラック部門の最高責任者ら主要幹部。当時、同省は同社に対し、過去の重要不具合を精査し、8月22日までに報告するよう求めていた。
トップ会談は複数回開かれ、河添容疑者は最終的に、「(報告対象は)98年4月以降で行こう」と自ら決定を下したという。
横浜地検の北村道夫次席検事は、特に河添容疑者について、「リコール隠し問題で社長として(責任を)問われていた時で、その責任は非常に重大だ」と強調した。(読売新聞)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040702-00000101-yom-soci