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東京地裁の出版差し止め決定を取り消した東京高裁の決定は、問題の記事で「書かれた側に事前に差し止めなければならないほど回復困難な被害が出るとまでは言えない」の一点で文春側の主張を認めた。
表現の自由に対する深い理解が基盤にある。決定が「事前差し止めを認めるには慎重なうえにも慎重な対応が必要」だとした前提は、表現の自由が民主主義体制の存立と健全な発展のために最も尊重されなければならない権利であり、表現を受け取る側にも大事であることだ。
当然の指摘である。だからこそ表現の自由は憲法上、他の人権より優越的地位にあるとされる。私たちも週刊文春の記事にまったく問題がないとは考えないが、差し止めは例外中の例外であるべきだ。
表現の自由と名誉・プライバシーの調整では憲法感覚、バランス感覚が重要な意味を持つ。理由も示さず差し止めた地裁の原決定、「回復困難な重大な被害」の発生に疑問を示しながらも原審を支持した異議申し立て審の決定と高裁決定では、憲法感覚に大きな開きがある。
さらに残念なのは優れた平衡感覚の裁判官は必ずしも多くないことだ。原審はわずかな時間の考慮で、しかも単独審理で言論に対する死刑宣告に近い出版禁止命令を出した。理由も示されない“一刀両断”だった。自らが出そうとしている決定の影響を十分考えたのだろうか。裁判官は自らの権力の大きさ、怖さをもっと肝に銘じてほしい。
決定を肝に銘じなければならないのは表現者の側も同じである。高裁も、記事はプライバシー侵害であり、公共性も公益性もないとしている。出版差し止めこそ否定されたものの、損害賠償訴訟が起こされれば文春側が「違法」として敗訴する可能性が高い。
週刊文春の記事は盛り込む事実を限定し、当事者の名誉を傷つけるような表現を避けるなどそれなりの配慮をしているが、書く側と書かれる側および司法の感覚には大きな格差がある。
差し止めの取り消しで「表現の自由が瀬戸際で守られた」ことは歓迎できるが、「表現の自由が勝った」と浮かれてはいられない。むしろ自らを戒め、書かれる側の立場も視野に入れながら、表現の自由の意義や役割をじっくり考え続けよう。
http://www.tokyo-np.co.jp/00/sha/20040401/col_____sha_____002.shtml