2004年03月10日(水) 15時16分
春秋(日経新聞)
ドストエフスキーは「罪と罰」の結末を、春の朝に設定した。殺人の罪で服役しながら、いまだ改悛(かいしゅん)とは無縁の青年ラスコーリニコフが、降り注ぐ陽光の下、突如、生まれ変わったような高揚感を覚える。春の蘇生(そせい)力が冷酷な主人公に外界との交感、空想からの回帰を促したかのように。
▼同じく春の朝、医療少年院を仮退院して再生への小さな一歩を踏み出した青年は、7年ぶりに「社会」で浴びた日差しに何を感じたのだろうか。すでに贖罪(しょくざい)意識を持つなど教育・治療による成果が認められ、順調にいけば保護観察期間も年末で終わるという。復帰後に待ち受けるのは、長い長い「償いの道」だ。
▼事件のまれに見るおぞましさは、14歳から刑事処分を可能にする少年法改正の契機になった。だが厳罰化や有害環境の規制が犯罪の抑止力になりうるか、答えは出ていない。肝心の「少年たちがなぜ簡単に人を殺すのか」がナゾのままなのも、むなしさを募らせる。
▼家庭の弱体化、地域の空洞化。事件は「加害者」を生んだ社会を抜きには語れまい。その社会が健全かどうかは、例えば更生し帰還した者を受け入れる場があるかどうかでも、うかがえる。居場所の詮索(せんさく)など、牙をむいて待ち受ける好奇の目はないだろうか。春のエネルギーは蘇生力にも破壊力にもなりうる。
http://www.nikkei.co.jp/news/shasetsu/20040310MS3M1000H10032004.html