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1996年09月05日(木) 00時00分

(3)「触れるなかれ」の不幸読売新聞

◆否定的価値観心身のケアに壁

 東京の繁華街で待ち合わせた40代の女性は、ショートカットで快活な印象だった。だが、こと自分の性の話になると急に眉(まゆ)をひそめた。「セックスのたびに汚されていく気がして……。セックスはもう一生しなくても悔いはないわ」

 中学生のころ父親にキスをされたり、胸にさわられたりしたことがある。雑誌の相談コーナーに投書したが、郵送されてきた回答には開封した跡があった。母親を疑い、心を開けなくなったという。

 20代で結婚を前提に交際していた男性と初めてセックスをして、ひどい嫌悪感に陥った。自分でも理由はわからなかった。「結婚前にこんなことを」という自責の念もあり、セックスに楽しいイメージは持てそうになかった。

 彼とは間もなく別れた。それから何人かの男性とつきあったが、だれとも長続きしない。フリーの編集者として働きながら、どうしたら心が満たせるかを探るグループ・セラピーにもいろいろと行ってみた。ある合宿で父親と母親のことを尋ねられ、昔の出来事を思い出した。

 「涙があふれて顔が上げられなかった。あの恥ずかしさや屈辱感。心の底では、自分の体を忌まわしいものとずっと思い続けていたんです」

 性に嫌悪感を持つ女性は子供時代、身近な大人から性的被害を受けたことがあるという説が欧米では広まっている。日本ではまだこうした因果関係は証明されていないが、大人になっても「性」に対して、そして女性としての自分の体にも否定的なイメージを持つケースが少なくない。

 日本性科学会の幹事でもある国立千葉病院の産婦人科医、大川玲子さんはこの8年間、93人の性機能障害の女性を治療してきた。とりわけ多いのはセックスの際、緊張の余り膣(ちつ)の筋肉が無意識に収縮し、男性器を受け入れられなくなる症状だ。

 初めは、診察台に上がることすら嫌がる女性も珍しくない。結婚して何年もたつのに「1度もセックスしていない」というカップルもいる。毎月1回カウンセリングを重ね、自宅で自分の性器を鏡で見たりさわったりして、心身の抵抗を減らすための訓練をするように勧める。

 しかし、次回の来院予定が迫ってからしぶしぶ“宿題”に挑戦する女性もいて、心のケアを含めた治療はなかなか厄介なのが実情だ。

 昨年、大川さんの診察室に50代の女性がやって来た。出血が1か月も続いていた。聞くと、若いころから夫との間に夫婦生活はないという。手の施しようのない末期がんで、間もなく亡くなった。

 「性をもう少し肯定的にとらえていたら早めに診察を受けられたはず。自分の性器を見たりさわったりすることすら怖いという文化を変えない限り、女性たちの本当の幸せはないのではないでしょうか」と大川さんは強調する。

 「女性器」というだけで「触れてはいけないもの」とタブー視する伝統的な考え方は、今なお根強く残っている。日本性教育協会が2年前、大学生約700人を対象に行った「青少年の性行動」調査でも、20歳女性のセックス体験率は45%なのに、自慰の体験率は24%にとどまっている。性を解放的に受け止めていると思われている若い世代でさえ、これが現状なのだ。

 女性の自慰には首をかしげる人もいるかもしれない。しかし、女性の自慰も、男性と同じく自分自身の体に親しみ心の緊張を解くなど肯定的に評価すべきだという見方が出てきている。

 昨年創刊された雑誌「性と生の教育」は「月経」「性器」などテーマ別の特集でこうした考え方を紹介してきた。編集長の山本直英さんは「ポルノやセックス産業が隆盛を極め、女性や子供は男性に都合のよい性の対象として知らず知らずのうちに犠牲を強いられている。愛と性の基本となる人権意識や『男性器と女性器は分化の過程で発生する』という科学的知識を広めていかなくては」と言う。

 社会的な風習や家庭環境で価値観が縛られる性の分野では、女性が受け身という現状はなかなか変わりそうにない。女性たちが、本当の意味で自分の心と体の主人公になれるのはいつのことだろう。

http://www.yomiuri.co.jp/feature/sfuukei/fe_sf_19960905_01.htm